武将

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戦国武将

応仁の乱から大坂の陣終結までの戦国時代に、軍を指揮し統率した長。
今日までも歴史に名を残す武将たち。

武田信玄 武田信玄 武田信玄

武田信玄・山梨県【1521〜1573年】

甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第十八代・武田信虎の嫡男。先代・信虎期には国内統一が達成され、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃・駿河・西上野・遠江・三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて甲斐武田家の領国を拡大した。晩年、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃で病没した。「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎または、龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれた。

伊達政宗 伊達政宗 伊達政宗

伊達政宗・宮城県【1567〜1636年】

出羽国と陸奥国の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。
伊達氏第十六代当主・伊達輝宗と最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の嫡男。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世独眼竜と呼ばれた。徳川家光からは非常に尊敬されており「伊達の親父殿」と呼ばれたこともある。祖父である家康とも渡り合った戦国の雄でもあって、家光にしてみればあらゆる面で父親替わりだった。「ダテ眼鏡」の”ダテ”は、苗字である伊達から来ていると言われ、お洒落な存在だったことがうかがえる。

真田幸村 真田幸村 真田幸村

真田幸村・長野県【1567〜1615年】

本名は、真田 信繁(さなだのぶしげ)。
安土桃山時代から江戸時代初期の武将。「幸村」の名が見られるようになったのは江戸時代で、寛文12年(1672年)成立の軍記物語『難波戦記』がその初出であると考えられる。その『難波戦記』が人気を博し、広く読まれたため「信繁」ではなく「幸村」とすることの方が一般的となったと言える。時代が下るにつれ「幸村」の名があまりにも普遍化してしまったため、幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正史にまで「幸村」が採用されている。

徳川家康 徳川家康 徳川家康

徳川家康・静岡県【1543〜1616年】

本名は、松平元康(まつだいら もとやす)。
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。徳川家康は織田信長と同盟し豊臣秀吉に臣従した後、日本全国を支配する体制を確立して15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代・安土桃山時代)に終止符を打った。家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は、17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く江戸時代を画した。

織田信長 織田信長 織田信長

織田信長・愛知県【1534〜1582年】

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。
室町幕府を滅ぼし、畿内を中心に強力な中央政権(織田政権)を確立。戦国時代の終結に最大の影響を与えた人物の一人。この政権は豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと続いていった。1560年、桶狭間の戦いで今川義元を討ち1575年の長篠の戦いでは、五人の奉行に1000丁余りの火縄銃を用いた射撃を行わせ、斬新な戦いを展開した。

前田利家 前田利家 前田利家

前田利家・石川県【1538〜1599年】

加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。
容姿については、男性の平均身長が157cm程度の時代に六尺(約182cm)という類稀なる恵まれた体格の持ち主で、顔も端整であったことから非常に見栄えのいい武将だった。また、当時は利家の性格を「律義者」であったと評されている。利家の烏帽子兜は大きく特徴的だが、合戦用で小型の烏帽子兜も使用していた。

加藤清正 加藤清正 加藤清正

加藤清正・熊本県【1562〜1611年】

肥後国熊本藩初代藩主。別名は虎之助(とらのすけ)。
豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人である。その後も各地を転戦して武功を挙げ肥後北半国を与えられた。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後国一国を与えられ熊本藩主となった。明治43年(1910年)に従三位を追贈されている。清正は身の丈六尺三寸(約190cm)の大男であったが、長烏帽子形兜(ながえぼしなりかぶと)という変わり兜を被ることでさらに背が高く見えたという。浮世絵の武者絵では、この兜と蛇の目紋は清正を表すシンボルだった。